2017/07/31

タクシードライバー歌人



先日、以前から気になっていた「歌集」を“アマゾン”で購入。捲り始めてすぐにこんな歌と出会い、グッと心を掴まれたままその作品世界に引き込まれてしまった。

自分がもう無い泥酔者とゆく夜よせめて悲しみなくさずにあれ
苛立たぬ事を誓ひて出で来しが今日も守れぬ誓ひとなりぬ

歌集のタイトルは『インソムニア』(ながらみ書房)。作者・高山邦男さんは現在58歳、認知症の母の介護をしながら個人タクシーの運転手として働いている。
「インソムニア」とは眠れない人々とか不眠症という意味だが、あとがきを読むとこのタイトルとの出会いが直接的な契機となり第一歌集の上梓に至ったことが分かる。

《三十歳後半から夜の仕事をしてきたぼくは昼間の仕事の人とは別の世界を生きてきました。さらに言えば、昼間も世界の人たちの夜の顔を見ることになったり、夜を眠れない人たちからの少しひび割れた心の通信があったりしました。そうした事から、人間の影の部分も含めて「夜」という切り口がこの歌集の一つのテーマであると思っています。だからでしょうが、このタイトルに出会った時に歌集を出すべき時期が来たと直感しました。》

そのテーマ通り、夜を徹して走り続ける「タクシードライバー」の眼差しを通して、孤独な時間と巨大都市・東京の様々な表情が浮かび上がる。

わが仕事この酔ひし人を安全に送り届けて忘れられること
運転手と無職になりたる年寄りが多く聴くらし「ラジオ深夜便」
誰ひとり頼らず生きし浮浪者の死して駅前お供へ絶えず

タクシードライバーは他の仕事からの転職者が多いという。高山さんもご多分に漏れず、有名企業からのドロップアウト組(早稲田大学を出て就職した後、33歳での転身)。「勝ち組・負け組」の世界から抜け出た人ゆえの繊細さとあてどなさ、弱者に寄せる心、そして同時代を生きる人への連帯感が様々な点描となって胸に染み渡る。

勝ち組と負け組があるらしき世に脱走兵のごときわが生
二番目となりて夜景に柔らかく東京タワーが灯せる心
何時間続けるのだろう歩行者を誘導してゐる娘明るし
深夜番コンビニ店員李さんはいつも含羞みながらレジ打つ
赤信号ふと見れば泣いてゐる隣 同じ放送聞いてゐたのか

そして、自らの胸で宥めるほかなかった怒りと悲しみだろうか。非礼な客に詰られ・凄まれ・蔑まれ、心を踏みつけられた記憶の断片……

樵にでもなる方がましと言はれたるバブルの頃の差別懐かし
気が沈む時浮かび来る 車中にて罵倒されたる記憶幾つか
内容にあらずをつさん呼ばわりの若者が吐く罵倒が痛む
四方を窓に閉ざされてゐる車内にて兵士の狂気思ふ夜あり

“兵士の狂気”は、恐らく映画『タクシードライバー』のロバート・デ・ニーロの姿をイメージしたもの。特に十数年前の大リストラ時代は、サラリーマンのストレスがすごかったらしい。

ところで、高山さんの話によるとタクシードライバーは離婚している人も多いそうだ。歌を読むと思いを寄せた人がいる(いた?)ように思えるが、彼自身もなかなか結婚できず独身のまま。3年前に父をがんで亡くしてからは82歳の母との2人暮らしだという。
認知症の母に寄り添う日々の中、時折ふと頭に浮かぶ「幸せな生活」……還暦間近になっても瑞々しい感性を失わない男の歌には、独自の情感を研ぎ澄ますエネルギーのように、大切な人への変わらぬ思慕と長い歳月をかけて飼いならした孤独と寂しさが蓄えられているのだと思う。

夢なのか幻覚なのか涙ぐみ「すごく怖かった」と母は言ふ
母にまだ心の形ある時の言葉が銀器のごとく輝く
もう帰る?今日も母から言はれつつ仕事に出掛ける夜の街へと

真夜中にサラダを刻む幻の家の中ではきみがゐてくれて
好きな人を好きでゐられる幸せが灯れり窓の灯りのごとく
冬の街ふと覗き見るブックオフ『幸福論』が吾を待ちゐたり
壊れゆくものがまだあるわが心壊れてしまへもう春だから

壊れてしまへもう春だから……と詠いつつ、決して壊れない優しさとしなやかさを併せ持つ「自称ダメ人間」の手による歌集は、真正のダメ人間の胸をも射抜く繊細で鋭い言葉に満ちている。
これからも、〈不寛容な時代〉に生きる人たちの表情と内なる声に触れながら、「運転席」から見える東京の夜の姿をさらに鋭く詠い続けてほしいと思う。(第二歌集も、ぜひ!)

2017/07/22

夏の映画メモ③『しあわせな人生の選択』




先日、いつも仕事で忙しい友人のY君から「明日午後、都内で夕方まで時間が空いているので、映画でも見ようと思う。何か、面白いのやってる?」と携帯にメールがあり、「それなら、コレ!」とオススメした映画『しあわせな人生の選択』(監督:セスク・ゲイ/製作国:スペイン、アルゼンチン/2015年)。

末期ガンを患い刻々と死が近づく中、別れの準備を整える男が、彼の大切な人々や愛犬と過ごす最後の4日間を《コメディと感動そして皮肉と優しさを入り混ぜながら》映し出し、スペインのアカデミー賞と呼ばれる「ゴヤ賞」で、作品賞、監督賞など最多5部門を受賞した作品。

監督・脚本のセスク・ゲイは、自身の母親の闘病体験を経て「この経験をユーモラスな形で表現したい」という思いで本作を製作したとのことだが、その思い通り、所謂“余命もの”とか“終活もの”と呼ばれるジャンルの映画にありがちな「お涙頂戴。感動あげます」的なあざとさや既視感を全く感じさせない異色のテイスト。
切実な状況にありながら、少し滑稽で皮肉屋の主人公フリアン(リカルド・ダリン)をはじめ人物描写も丁寧かつ個性的、その固有のキャラクター同士が交わす何気ない言葉のひとつひとつに作り手の実感と静かな情感が込められていて、「4日間のドラマ」の幕が下りた瞬間、何十年もの長い旅を共にしたような、かつて味わったことのない深く切ない余韻に包まれてしまった。

因みに映画の原題『Truman(トルーマン)』はフリアンが飼っている犬の名前。彼が久々の再会を果たしたばかりの親友トマス(ハビエル・カマル)を連れて動物病院へ行く「1日目」、「犬も喪失感を感じるのか?」「新しい家族に引き渡すときは、俺の匂いがついた服を持たせるべきか?」などと獣医に尋ねるシーンがあるのだが、普通に元気そうなフランツの「終活」をリアルに感じさせられて胸が熱くなる。

で、映画を観終ったY君からは「良い映画&考えさせられる映画でした。犬派の俺にとっては、ラストシーンの犬の表情が何とも切なかった……観客の7、8割はシニア世代(自分も含めて)。みんな終活を考えているんだろうか?」というメールが届いた。

それに対して「平日の昼間はどんな映画でも7割方シニアだよ。要するに暇なんです。まあ残りの人生、映画で時間を潰すのは悪くないと思うけどね」と、せっかくの感動(感傷?)を邪魔するような返信を送ってしまったわけだが、「ジャック」のせいで“たまたま猫派”になってしまった私とて、愛犬を手放すフリアンの気持ちは痛いほど分かる。

といって「終活」となると、どうだろう? 年齢的には「そろそろ考えた方が…」と言う人も多くいるのだろうが、こと自分の死に限れば「こうしてほしい」という思いもないし、わざわざ遺書に書いて残すような物もなければ事もなく、ほとんどイメージが湧かない。
第一、元々とっちらかった性格ゆえにそこそこ楽しく元気に生きてこられた人間が、いきなり姿勢を正していつ訪れるかもしれない己の死と向き合っても、単に老け込むだけでロクなことにはならないような気がする。また「終活(ブーム)」自体、葬儀会社や坊さんのビジネスに乗せられているような気色悪さも漂うし……という具合で今の所「終活」を始める気など起きようもない私だが、愛犬と暮らすY君をはじめ親しい仲間たちは誠実で真面目なヤツばかり。真剣に「終活」を考えているのかもしれない。いつか会った時にでも、この映画の話をしながら聞いてみたいと思う。

2017/07/19

夏の映画メモ②『ハクソー・リッジ』



引き続いて映画の話。

アルコール依存、飲酒運転、差別発言、DVなどなど。酒に酔っては暴力・暴言事件を繰り返しハリウッドから追放状態にあった俳優メル・ギブソンが、10年ぶりに監督として復帰を果たしたことで話題を集めた『ハクソー・リッジ』(平日昼間、観客もまばらな「Tジョイ」で鑑賞)……

タイトルのハクソー・リッジとは、太平洋戦争における沖縄戦の激戦地である前田高地のことを指す米軍の呼称。(前田高地にある148メートルの垂直に切り立った崖の形を“ノコギリ”に見立てて名付けたそうだ)

この映画の公開にともなう宣伝(CM、新聞広告など)では、何故か“沖縄戦を描いた映画”という事実が配給会社によって隠されていたため、私を含めそれを知らずに観た人も多かったはず。生き延びた兵士が「ありったけの地獄を一つにあつめた」と称した壮絶な肉弾戦がその「ハクソー・リッジ」で繰り広げられたことを知るのも映画の終盤になってからだった。

では、なぜ公開時のプロモーション動画や広告で“沖縄戦”が隠されたのか? 当然のようにネット上では「“反日”攻撃を恐れた過剰な自主規制の典型」という批判の声もあがっているが、その点に関して、『野火』を撮った塚本晋也監督はこう述べている。
「沖縄の戦争の悲惨さは、住民の人が圧倒的に亡くなったことですので、映画はそういうところには触れませんでしたから、沖縄戦を描いた、というよりは、実在の人が働いた場所が沖縄だった、というあくまで“アメリカのひとりの英雄の姿を描いた娯楽作品”と思うべきなのかも知れません。宣伝文句から「沖縄戦」が消えているのは、そんな理由があるのでしょうか」……(観た印象として、私も同感)

確かに、メル・ギブソンが映画を通じて描こうとしたのは“悲惨な沖縄戦”でも、“反戦平和の願い”でも、“(自国を美化する)好戦的ヒロイズム”でもなく、自ら陸軍に志願しながら信仰を理由に「いかなる武器も持たない」(生死を分ける戦場においても「決して、加害者にはならない」)という意志を貫き、衛生兵として赴いた沖縄戦において、たった一人で75人の兵士の命を救った男の「真実の物語」(主人公の「デズモンド・ドス」は終戦後、良心的兵役拒否者としてアメリカ史上初の名誉勲章を授与された実在の人物)――臆病者の謗りを受けようが差別的な扱いを受けようが、信念を揺らがすことのなかった青年の出自とその成長する姿だった。(特に、第一次世界大戦に出征した経験を持つ“信心深く暴力的”な父との関係が興味深い)

戦争という凄まじい暴力のエネルギーが激突する場にあってもそれに染まらず、それをも超える信念の強さで仲間はおろか敵兵の命までも救い(戦闘中、洞穴の中で出くわした瀕死の日本兵を救うシーンは本作の核心。とても印象深かった)生き抜いた主人公ドス。
それはまさに、「人格破綻者」とまで言われながらも「映画表現への信念」を失わず、己の内なる暴力と対峙しようとする監督メル・ギブソンの求める姿なのかもしれない。(彼には、「反ユダヤ主義」の父の影響を受けた伝統主義カトリック教徒という“顏”もある)

以上、一人の英雄の半生を興味深く描いた見事な“娯楽作品”でありながら、戦場の惨たらしさを容赦なく感じさせてくれるという意味でも傑出した戦争映画。そのリアリティと緊張感を最後まで緩めることなく描き尽くした監督の手腕と才能に、敬服するのみ。(老若男女問わず必見の一本だと思うが、特に若い人たちに観てほしい)

2017/07/17

夏の映画メモ①



つい最近、猛暑の中、エアコンが突然動かなくなるという悲惨な状況に陥ってしまったが、一昨日ようやく再稼働。(原因はラジエーターの劣化による“ガス欠”。応急処置としてガスを充填したが、時期を見計らってラジエーターの交換が必要らしい)

修理の人が来るまでの数日間は、まるでサウナに入っているような感じで仕事も読書もままならず。昼間は喫茶店、夜は早目に涼しい地下へとエスケープしていたが、部屋に涼風が戻ったお陰で体力も思考力も回復。暑さにかまけてサボっていたブログを書く気になった。

というわけで、久しぶりに映画の話。まずは邦画2本……

『ちょっと今から仕事やめてくる』(監督・脚本:成島出)
20代の頃に二人の親友を自死で亡くし、「助けられなかった」との思いを「ずっと抱いてきた」という成島監督が、「長時間労働」「パワハラ」「自殺」など現在的な問題を捉えた同名ベストセラー小説を基に映画化したもの。(タイトルは軽いが、映画の中身はけっこう重い)

主人公は二人。ブラック企業(広告代理店か印刷会社のようだが、業種がイマイチ分かりにくい)で働く営業マンの青山隆(工藤阿須加)と、駅のホームで意識を失いかけた彼を助けた“幼馴染の「ヤマモト」”と名乗る謎の青年(福士蒼汰)……そこにパワハラ部長(吉田鋼太郎)、成績優秀な先輩社員(黒木華)、「ヤマモト」の過去を知る女性(小池栄子)などが絡んで、多少のコメディ&ファンタジー要素も孕みつつ「電通過労死事件」を思い起こすようなシリアスなストーリーが展開していくのだが、映画が発するメッセージは明確。「命より大事な会社(仕事)などない」ということ。
「ヤマモト」との交流により、最後は力強く生きる力を取り戻していく「隆」の姿に、自分の状況を重ねて心が軽くなる人も多いと思うし、それが監督をはじめ製作側の願いでもあるはず。
私のように「イヤな仕事は辞めるか、そこで闘うかの二択」的な発想を常としてきた“こらえ性のない大人”より、真面目さ故に理不尽な環境から逃れられない若い人たちにこそ見てほしい一本のように思う。
(主演二人の演技もなかなかだったが、最も印象に残ったのは主人公・隆を罵倒し続ける最悪・最低の上司を演じた「吉田鋼太郎」。度を越したパワハラぶりは演じている本人も辛かったようだが、小栗旬や藤原竜也と仲が良く“年下キラー”としてそのコミュニケーション力が注目を集めている好漢・吉田鋼太郎のイメージを見事に拭い去った怪演に拍手。役作りでイメージしたのが「蜷川幸雄」というのも彼らしくて面白い)

ところで、
「どんな会社も“ブラック企業”だよ」とは、友人の経済学者N君がゼミの学生に語った言葉だが、長引くデフレや労働組合の弱体化、さらに「残業代ゼロ法案」等々によって“総ブラック化”が危ぶまれている日本。今や労働者の味方であるはずの「連合」まで、政権にすり寄り“総ブラック化”に加担しているようでは、映画の中の「ヤマモト」のような存在でもいない限り真面目な普通の会社員は身と心を守る術がない。(企業内組合にはほとんど期待できないし)
何とか時代の空気を変える斬新な政策と新しいセンスを感じさせる「労働者と市民のための政党」が出来ないものだろうか……

『ケンとカズ』(監督・脚本:小路紘史/製作年2016年)
昨年劇場公開された時から「観たいなあ」と気になっていたインディーズ作品。上映館の少なさや上映時間のタイミングなどが合わずに見過ごしていたが、先日TUTAYAで発見(&即レンタル)、真昼の暑いリビングで一人静かに見入った。

舞台は千葉県市川市。小さな自動車修理工場で働くケン(カトウシンスケ)とカズ(毎能克哉)は高校からの腐れ縁。工場のオーナーでもあるヤクザの藤堂の元で覚醒剤の密売にも手を染めていた。そんな中、ケンの恋人・早紀が妊娠、彼女の前ではカタギを装っていたケンだが、生まれてくる子どもと彼女のために、まともな父親になろうと裏社会から足を洗いたいと考え始める。だがその矢先、痴呆症の母親を施設に入れるためにまとまった金が必要なカズは、ケンに相談することなく藤堂を裏切り、敵対グループと手を組むという危険な賭けに出る。そんなカズの突然の暴走に「聞いてねえぞ!」「(ヤクザを相手に)何考えてんだ!」と激昂するケン、怯まず不敵な笑みを浮かべ「一緒に稼ごうぜ」とケンに圧力をかけるカズ。果たして二人の行く末は……というのが大まかなストーリー。

ヤクザ社会からの脱出という切なく脆い夢の結末を予感させながら、汗ばむような緊張感の中、重く静かに加速するスリリングな展開は、無名の役者二人の強烈な印象も相俟って、コンパクトながら新しいヤクザ映画(or日本版フィルムノワール)の登場を思わせるに十分なもの。今年観た邦画の中でベスト1といっていいほどの“嬉しい衝撃”を受けるとともに、グイグイ引きこまれてしまった。(凄いぜ、熱いぜ、インディーズ映画!)

 

2017/07/04

雑感・都議選(&小池ファースト?)



「本当の敵は優しい笑顔でやってくる」……誰が言ったのかはハッキリ覚えていないが(確か、メキシコで暗殺されたロシアの革命家・トロツキーだったと思うけど)、小池都知事の勝利の笑顔をテレビで見ながらそんな言葉を思い出した一昨夜。

安倍政権の暴走を防ぐという意味で、自民党が30議席以上を減らし大惨敗したのはとても喜ばしいことだったが、その分の議席がそのまま都知事率いる「都民ファーストの会」に流れ込むという構図は、見ていてさほど気持ちの良いものではなかった。

何故かと言えば、“積極的な情公開姿勢&古い議会から新しい議会へ”という至極真っ当な方針を、余裕の笑顔でソフトに訴えかける選挙上手な小池マジックにメディアも都民も魅せられ、乗せられ「都民ファーストの会=都民目線のリベラルな地域政党」というイメージが、いつの間にか広く浸透してしまった“不気味感”というか、それは「ちょっと、違うんじゃないの?」という思いがあるから。

もちろん、小池都知事及び都民ファーストの会の議員たちが「都政改革」へ取り組む姿勢に嘘はないだろうし、民進党などが存在感を失う中で都民の怒りの大きな受け皿になれたことは素直に評価したいと思うが、兎に角、振りまく革新的なイメージに反して、党を牽引するリーダー二人(小池都知事及び73日付で再び代表の座に就いた野田数)の憲法感・歴史感がヤバすぎるのが、最も危惧するところ。
(小池氏は「戦後教育は自虐的」と過去に何度も発言している「改憲派」で、もともと「日本会議」と深い関わりのあった人。野田氏は「現行憲法の無効」を主張し、「国民主権という傲慢な思想を直ちに放棄すべき」などとトンデモ発言を繰り返すゴリゴリの右翼)

平たく言うと、自民党の改憲草案や安倍政権と通底する新たな「ナショナリストの政党」が、都民を味方にして出てきたという感じ。東京五輪後に、「都民ファースト」から「国家ファースト」へと目線が変わり、安倍的な自民党とつるんで一気に憲法改正を仕掛けてきたとしても何ら不思議なことじゃない。

というわけで、「都政改革」への期待と、その後の「国政進出」への不安を同時に孕む「都民ファーストの会」の圧勝劇……「情報公開」「ワイズスペンディング」&「築地は守る、豊洲を生かす」もさることながら、私を含め多くの都民が安倍政権への怒りを込めて振った賽の目が、数年後、国政の場で良からぬ方向に転がらないことを願いたい。