2017/01/30

鬼才ロウ・イエの新作。




観終わった後、決してイイ気分にならないのは分かっているのに、「ロウ・イエ」(&「ジャ・ジャンクー」)の新作と聞くと、「観なくっちゃ!」と妙に気合いが入ってしまう。

何故か? それは彼らの映画が、大規模な経済発展を遂げる表向きの中国とはまた別の顔、社会に広がる格差の只中で生きる人々の表情・心情をリアルに描いて見せてくれるから。(孤独と不安と欲望、そしてあてどない愛の風景……二人の作品を観ることは、中国社会の今を感じとることであり、その文化の体内温度に触れること)

とりわけ惹かれるのはロウ・イエ。中国国内で5年間の映画製作禁止処分を受けながら、フランスと香港の出資によりゲリラ撮影(南京オールロケ)を敢行して作り上げた“孤独な愛の物語”
『スプリング・フィーバー』(2009年製作)の印象は、暫く頭がクラクラするほど強烈なものだった。

というわけで先日、昼メシ時の新宿「K’s cinema」で観たロウ・イエの新作『ブラインド・マッサージ』(製作国:中国、フランス/2014年/原題「推拿」)……(鑑賞前、映画館近くの純喫茶「タイムス」でランチ。珈琲&ナポリタン)

舞台は中国・南京の盲人マッサージ院。そこで働く若者たちの日常を描いた群像劇だが、作中では売春婦の世界とマッサージ師の世界がシンメトリーに描かれている。(「他に収入を得られる選択肢がない人の仕事」という意味で中国では風俗店とマッサージ店は象徴的であり、“不安定な存在”として強いリアリティを持つという)

で、その印象……

まずいきなり彼らの会話の中で発せられた《盲人は光にさらされ、健常者は闇に隠れる》という言葉が胸に鋭くグサッ。そして「もし光を失ったら、お前はどうする?どう生きる?」と問いかけるように、「明かりと闇」を巧みに操る斬新なカメラワークにドキッ。その後は、中国社会における障害者差別の過酷な現実を捉えながら、「健常者」の常識を皮肉る彼らの“したたかさ”、その迸る情念をも描き出そうとするロウ・イエのパワーに圧倒されヘロヘロ。(なので、もし観るなら体調の良い時に)

エンドロールに流れた曲の美しさに心揺らしながら、ヨレヨレで映画館を後にした。

ちなみに、国内で“発禁キング”と呼ばれるほど中国当局からマークされているロウ・イエの作品でありながら(しかも大胆な性描写や暴力シーンがあったにも関わらず)、検閲をすんなり通った?のは、本作の原作が近年、中国で評価が高まっている作家・畢飛宇(ビー・フェイユイ)の同名小説『推拿(すいな)』だったこと、そして『推拿』が中国では最高クラスの権威を誇る文学賞「茅盾(ぼうじゅん)文学賞」受賞作であったことが強く影響していたようだ。

2017/01/25

キューバの珈琲を飲みながら……



午前中、昨年末から2週間近くキューバ~アルゼンチン(ブエノスアイレス)を旅していたデザイナーのUEちゃんの写真を見ていた。


珈琲は、先週土曜“帰国祝いランチ会”の席で彼女から貰った土産。香りはあまり感じないが、
淹れるとまろやかで美味しい好みの味だった。(土産は他に、チェ・ゲバラの顔が印刷された貴重な紙幣やキューバの1ペソコインなど)

写真を見ていると、モノの貧しさと文化の豊かさが醸し出す独特のコントラスト……とでも言おうか、その国だけが持つ色の深さ・豊富さに強く心を奪われる。

で、小一時間、旅をしているような気分で、キューバに思いを馳せた……

「最も成功した社会主義国」と言われているキューバでは、医療費および大学までの教育費が誰でも平等に無料(医療技術・設備は世界トップクラス)。もちろん、社会主義国ならではの貧しさと不自由さはあるが、故フィデル・カストロをはじめ革命指導者たちも清貧に暮らす“平等な国”であり、驚くほどの低価格で購入できる食料配給システムもあって餓死の心配はなく、治安の良さも世界有数とのこと。(米国と半世紀ぶりに国交回復して1年あまり。欧米など海外からの観光客が増えていて、その恩恵を受ける人と取り残される人たちの格差が徐々に広がっているという状況もあるようだが)

つまりキューバは、生きていく上で最も必要な部分での不安が少ない国。その根本の安心感(&ラテン気質)が「明るい国民性」の源となり、カラフルな街並みに人々の笑顔が映える「明るい社会主義国」というイメージを生みだしているのだろう。

Ayumi Uesaka」の写真にも、そんな「明るさ」と「貧しさ」が愛おしく活写されているように思う。

ぜひ、上記アドレスからご覧あれ。

※ブエノスアイレスの写真はコチラから。https://www.flickr.com/gp/auesaka/Zz44Pc

2017/01/24

「坂井の鉄ちゃん」、忘るまじ。



ファンというほどではなくても、大好きな映画に出演していた俳優がこの世から消えてしまうのは、やはり淋しいことだ。
その追悼のつもりでシリーズ第1作のDVDを借りてきたが、こうして『仁義なき戦い』を観るのは、何度目になるのだろう……

昨日、松方弘樹が亡くなった。(享年74歳)

女性絡みのネタで週刊誌を何度も騒がせたり、どデカいマグロを釣り上げてニュースになったり、本業以外の話題が多すぎてイメージ的に損をしていた気もするが、昭和映画史に輝く名優の一人であることは疑いなし。彼を抜きに『仁義なき戦い』を語ることはできない。

特に印象的だったのはシリーズ1作目での山守組若頭・坂井鉄也役。そこで組長・山守義男(金子信雄)に放った一言は、“広島弁のシェイクスピア”と評されるほど研ぎ澄まされたセリフあふれる『仁義なき戦い』シリーズの中でも、(私的に)1、2を争う名セリフとして、いまも鮮明に記憶している。

それは、組内で厳禁の覚醒剤密売が行われていることに頭を痛めていた坂井鉄也(松方弘樹)が、没収した覚醒剤を横流しして懐を温めているのは山守組長だと気づいた瞬間、怒り心頭で山守をシメあげた時の言葉……金にせこく老獪な山守が「押さえたポン(ヒロポン)をそこらに積んどくいう訳にもいかんじゃないか。ほいじゃけん、わしゃわざわざ広島へ運んでよ、堅いルートを通じてサツの目に付かんように捌いとったんじゃ」と言い訳を並べた上に、「親のワシがやることにいちいち口出しするな! わしのやることが気に食わんなら、盃返して出て行け!」と開き直った瞬間に勢いよく飛び出した、胸のすくような啖呵だった。

親っさん、言うちょいたるがのう、あんたははじめからわしらが担いどる神輿じゃないの。組がここまでになるのに誰が血ぃ流しとんの。神輿が勝手に歩ける言うんなら、歩いてみいや、おう! 

監督・深作欣二が言うように、映画『仁義なき戦い』は≪古くてズルい大人達にしてやられる若者達のドラマ≫。結局“組運営の正常化”に心血を注いだ「坂井鉄也」も、造反の果てに山守の策略で殺されてしまうのだが、「鉄ちゃん、サイコー!」と私たちを唸らせた、ズルい権力者に対する気合いの一言は、時代が変わった今も、色褪せることなく長く『仁義』ファンの心に残り続けていくはず。

改めて映画の中の「坂井鉄也」と、俳優・松方弘樹に弔意を表したい。

2017/01/14

年の始めの10日間②



4日(水)
初映画。恵比寿ガーデンシネマで『スモーク(デジタルリマスター版)』を鑑賞(感想は改めて書くつもりだが、心底「沁みる」大好きな映画)。途中、恵比寿神社に寄り参拝。(御籤の引き直し、めでたく中吉)

6日(金)
朝からクシャミ・鼻水・喉イガイガ……しかし、いきなりバイトを休むわけにもいかず、「龍角散ダイレクト」をポケットに入れ、カイロをシャツに貼り、その上にユニクロの防寒・仕事服を着こんで出かけた。が、やはり風邪のひきはじめに、この冬一番という寒空の下での仕事はさすがに堪えた感じで徐々に悪寒が始まり、14時過ぎ急速に体調悪化。同僚のOさんに断りを入れ10分休憩を20分に伸ばし、何とか16時まで持ちこたえた。
で、帰宅後、熱を測ったら38度あり、即、医者へ。検査の結果、インフルエンザではなくいつもの風邪とのこと。熱のせいか食欲もなく、夜7時頃、薬を飲んで早々と床に就いた。(寝汗びっしょり…翌7日もほぼ終日、床の中)

8日(日)
平熱に戻り、一気に体調回復。2日分の新聞を読む余裕もできた。

7日のトップ記事は《少女像「遺憾」強調》……
ナショナリズムとフェミニズムを刺激する問題であることは避けられないにしても、本来「慰安婦問題」は国家権力と人権の問題のはず。日本国・日本軍が戦時下に「慰安婦」をつくり、女性たちの意思に反し強制的に性的奉仕の生活をさせたという歴史的事実を日本政府が改めて確認し、その責任を認めて、(とりわけ)今も被害状態にある一人一人の名誉を回復し謝罪と補償を行うのは国として当たり前のことだと思うが、正直なところ、韓国の市民団体(?)が、国内外に設置し続けている「少女像(慰安婦像)」に関してはまったく理解できない。
私にはあの少女像が民族主義とフェミニズムの野合の象徴にしか見えないし、「日本に対するただの嫌がらせ」以上の意味があるとも思えない政治的なオブジェを「平和の碑」と呼ぶあざとさも気色が悪い。第一、こういう手段で両国民の感情対立を執拗に煽り続けるという運動の在り方が、被害者の心に沿っているのだろうか甚だ疑問に思う。彼らは何(何処)を目指しているのだろう。

《朝日川柳》は、「オスプレイ」「真珠湾」「トランプ」「准高齢者」を題材にしたものが多かった。
明けまして無かったことにオスプレイ (「今日も飛ぶ飛ぶ」の注釈あり)
寛容と和解 沖縄には向けず     (そもそも「寛容の心」があるの?あの人に)
ふかすとは誇示誇張だと広辞苑    (今年は「アベノミクスをふかす」そうで…)

夜は、NHK『おんな城主直虎』(柴咲コウ、ちょっと中谷美紀に似てきたかも)と、TBSの新春ドラマ『しあわせの記憶』(謙さんも良かったが、麻生祐未もなかなか)を楽しく鑑賞。

9日(土)
昼はバイト。夜はNHK7時半からの『ワンオクロック18祭(ONE OK ROCK 18FES)』を皮切りに、NHKスペシャル『それでも、生きようとした』を経て、日テレ『海老蔵にござりまする』まで、熱くなったり、しびれたり、重くなったり、切なくなったりしながら、びっしり4時間テレビ三昧。
特に心を打たれたのは『ワンオクロック18祭(フェス)』……18歳世代から選ばれた1000人と、その想いを受けて、この企画のために新曲「We are」を作り上げたONE OK ROCKの「1曲・1回限り」の共演。新たなロックの地平を切り開き続ける4人の一途な表現者と1000人の若者のコーラスによって作り上げられるスケール感満点の“ロックの絶景”に魅せられ、圧倒され、知らず知らずのうちに目頭が熱くなっていた。

10日(日)
キネマ旬報賞ベスト10発表、1位は『この世界の片隅に』……う~ん、ナットク。
私たちが生きるこの時代と、主人公・すずさんが生きた“あの時代”を地続きで感じながら、自然に平和への願いが胸に湧き起こる、この「静かな反戦映画」に心から拍手を送りたい。
(昨年末、池袋サンシャインシティ近くの『HUMAXシネマズ』で観たのだが、一つだけ残念だったのは、3席ほど離れた所に座っていた若者が、上映中しきりにスマホをいじっていたこと。その光が度々目に入り大事な所で集中力を削がれてしまった。映画終了後に「キミさあ、映画を観ている時にスマホいじってちゃダメだよ。周りに迷惑でしょ」と注意をし、彼も「すみません」と素直に謝ってくれたけど、貴重な“映画の時間”は戻らない……なので、もう一度、観ようと思う。スマホに邪魔されない映画館で)

2017/01/12

年の始めの10日間①


1日(元日)
届いた年賀状は自分が出した数と等しく40通ほど。
俳人・T君の新春詠は「まんなかに秘めたる希望 寒卵」。
岩手・大船渡で暮らす“読書人”MASA君の賀状には私が送った写真集の中の言葉への返しだろうか「悲しいかな春を待っている自分がまだ此処に居る」との文言あり。
そして、「年頭から暗いハガキよこしやがってバカヤロ!と言われそうですが、今年もよろしく」としたためられたRITSUさんの賀状のメインビジュアルは、オホーツクの流氷をバックに佇む人間を描いた墨一色の木版画。そこに「斧のひと振りより遠くへ/敵を想定するな/のばした腕の四十インチむこう/きみの目測は そこまでいい/斧の位置まではきみが思考し/そこからさきは 斧が思考する……」という鋭いメタファーに貫かれた石原吉郎の詩が付されていた。

RITSUさんの言葉に触発されたせいだろうか、その詩「支配」の印象に重なるように、ふと太宰の言葉が頭に浮かんだ。
「アカルサハホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」……たぶん暗さにも質がある。その質を鋭く問いながら一人静かに生きている人もいる新春。


初詣は例年通り近場の東伏見稲荷。1時間ほど並んで参拝を済まし、引いた御籤は「凶後丙」(凶後吉ならまだしも、丙とは…)。 「旅立…悪し」「待人…来ず」「失物…出ず」「商い…買売共に悪し」など、当然のように良いことは何ひとつ書かれていない。


新年早々、参拝者への気遣いもなく、いきなりイヤな気分にさせるとは「なんて神社だ!」「なんて正月だ!」と、お気に入りの芸人でもあるバイきんぐ・小峠のネタを真似て毒づきたくもなったが、ここ5、6年の間に幾度も引いた「凶」絡みの御籤同様、今回も「緩んだ心を引き締めよ」という神様からのメッセージと受け止め直し、「丙」のツレ、「中吉」の愚息と共に静かに帰路に就いた。

3日(火)
バイトはじめ。作年末の大混雑から一転、駐輪場は閑散としていた。
なので仕事は暇、同僚のNさんと軽く映画談議(ネタは、年末に観たアニメ映画『この世界の片隅に』やスコセッシの新作『沈黙』など)を交わしたりしながら何事もなく終わったが、去年のクリスマス前、買物客でごった返すイブイブの駐輪場でこんなことがあった。


整理に追われている私の前に10代半ば?の女の子(今どきの中・高校生という風情ではない)が近寄ってきて、「すみません」と声をかけてきた。話を聞くと、停めておいた自転車にロックがかかってしまい駐輪ラックから出さなくなったとのこと。精算機で駐輪料金100円を払えばロックは解除されるのだが、家にサイフを忘れてきたらしい。だったら一旦歩いて帰って財布を取ってくれば……と思うのだが、家が遠いらしく歩きだと往復2時間以上かかり、その間にさらに駐輪料金が加算される云々…と、暗に金を無心してくる。その話の流れと彼女の表情から「ちょっと変だなあ」と思ったが、女の子を問い詰めるのも忍びなく、その“おどおど”に免じて「じゃあお金を貸してあげるから……ちゃんと返しにきてね」と100円を渡した。
結局、それ以来、駐輪場で少女の姿は見かけない。あの100円は何かの足しになれたのだろうか?