2016/06/30

『流』、寝落ちなしの一気読み。



「二十年に一度の傑作!」(北方謙三)
「これほど幸せな読書は何年ぶりだ?」(伊集院静)
「十五年間で一番幸せな選考会でした」(林真理子)
「これからの大衆文学を牽引するスター、エンタメ界の王貞治になってほしい!」(東野圭吾)

そして
「東山さんの守護聖人はならず者のじいちゃんの姿をしていて、おまえは血を流さずに何を証明できるのだと問いかけてくる。この小説は、その問いに対する唯一無二の答えなのだ」(宮部みゆき)

これだけ読者を煽っておいて、つまらなかったらどう責任をとってくれるのだろう……と、あらぬ心配をしてしまうほど、帯に躍る「選考委員」たちの賛辞がハンパない。(だが、その心配は読み始めてすぐ、ワクワクするような期待感に変わる)

金文字で書かれたその本のタイトルは『流(りゅう)』。台湾出身の作家・東山彰良が著した第153回直木賞受賞作品だ。

小説の舞台は、総統・蒋介石の死の直後、1975年・台北。何者かに殺された祖父の死の真相をつきとめることで、自分の生きる意味と未来を見つけ出そうとする17歳の主人公・葉秋生の無軌道な青春が、扉に記された印象的な詩の一節
魚が言いました…わたしは水のなかで暮らしているのだから あなたにはわたしの涙が見えません。(王璇「魚問」より) ※王璇は著者の父のペンネーム
に導かれるように、血と大地に根ざす歴史のうねりと、ほとばしるエネルギーの奔流の中で描かれる。

読後の満足度は、選考委員諸氏が絶賛した通り、今年読んだ小説の中で一番。その面白さの源泉と「寝落ちなし一気読み」の感想を合わせてDAIGO風に言うと、こうなる。
BS&T(懐かしのロックバンドか?!)……抗日戦争と内戦(国民党と共産党)の只中に生きた人々と、その時代の混沌と魂の宿命を引き継ぐ人々の“血と汗と涙”が、台湾の近代史と密に絡み合いながら、一塊で胸を突き抜けていくような、読み応え十分の「青春大河小説」だった。
(全編に「誰が祖父を殺したのか?」という疑問が通奏低音として響き続けるが、その謎解きは物語の本筋というより、大河の流れに不可欠なエンタメ的アクセント。「ミステリー小説」という括りで捉えると、期待は空振りに終わるかもしれない)

そして、ただのエンタメ小説と大きく違うのは、その根底に横たわるテーマの重さ。物語の最後に意外な犯人が明かされ、家族の紐帯の強さがもたらす憎しみの連鎖(&戦争の愚かさ)に思いをはせる時、多くの読者が私と同じように改めて扉の詩の一節と向き合うはず。

「水の中で暮らしている魚」とは、思うに出自も歴史も価値観も違う他者や他国、また貧困や戦火の中で生きる人々のこと。その魚の涙が見えない(見ようとしない)「あなた」とは、一見平和な日本で暮らしながら、いったん事が起きれば、報復と憎しみの連鎖の中に取り込まれてしまう危険性を秘めた「自分(たち)」のことではないだろうか?と。

 

2016/06/24

「フクロ叩き」の世の中で。



駐輪場で働いていると、顔見知りの警備員さんや駐輪場付近で働くシルバー人材センターの方々と言葉(愚痴?)を交わすことも度々。

その際、よく話題になるのは、「困った(溜まった?)人たち」……

「地下の駐車場に誘導する際、車の窓から唾を吐きかけられたことがある」と憤る警備員さんもいれば、自分の息子より若い男に「税金ドロボー」と罵られて心傷つくシルバーさんもいる。

そんな彼らがこぞっていうのは「(トラブルが失職に直結する)弱い立場の人間に、自分のストレスをぶつけているとしか思えない(人が多い)」ということ。殊更へりくだった態度で接しないと、「タメ口きくな」「態度が悪い」とキレる人もいる。(タメ口の意味を知っているのだろうか?)
で、「イヤになるけど、気にしているともたないからね~」「まあ、お互い、頑張りましょう」みたいな話に落ち着くのだが……

さて先日(21日)、東京都民の血税を使った贅沢三昧や政治資金流用疑惑が次々と判明し、マスコミ及び都民・国民から徹底批判を浴び続けた舛添要一氏が、東京都知事の職を退いた。

その辞職については多くの都民同様、私も当然のことだと思っているが、安倍政権の顔色だけを窺っているようなメディアが、都民・国民を巻き込んで展開した「正義の舛添叩き」には、「どこもかしこもヘタレのくせに、よく言うもんだ」と心底、うんざり。
権力からお墨付きをもらった叩きやすい相手だけを、執拗に攻撃するメディア的「ストレス発散」と、舛添氏のツイッターに寄せらせた“からかい”や罵詈雑言の嵐は、この国の異常さと不寛容さを示しているようで、とても気持ちが悪かった。
(舛添氏は、第一次安倍政権で自民党が参院選で惨敗した際の「安倍降ろし」の急先鋒。都知事になってからも安倍の側近の下村博文・前文科相を批判したり、憲法問題でも「復古的な自民党改憲草案は受け入れられない」と発言したり……安倍にとっては目障りな存在。
メディアの躊躇なき「フクロ叩き」は、「官邸の反舛添の空気が安倍応援団のマスコミに伝わっているから」という某政治評論家の話も、あながちただの憶測とも思えない)

そもそも、東京都知事の豪遊、税金を使っての贅沢三昧は、石原慎太郎の時代に始まり顕在化していたこと。
その「前例」を改めることなく何の抵抗もなく引き継いでしまった小物政治家・舛添要一が、「辞めろ」「説明責任を果たせ」と集中砲火を浴びて火だるまになったのは仕方ないにしても、彼の辞職後、なぜ「フクロ叩き」の矛先が、贅沢三昧のルーツである前知事・石原慎太郎に向かわないのだろう? 
現政権に「公平中立」を必要以上に求められているメディアにしては、甚だ公平性を欠く「ストレス発散(フクロ叩き)」ではないのか?

そこでも見えてくるのは、石原批判をタブーとするメディアの体質。芥川賞選考委員を務めた著名作家であり、保守論客として名を馳せた前都知事はマスコミ各社との関係が非常に深く、特に読売、産経、日テレ、フジは“幹部が石原べったり”とのこと。
週刊誌も作家はタブー視され、ベッキー、舛添で名を挙げたセンテンス・スプリングこと「週刊文春」、「週刊新潮」「週刊ポスト」「週刊現代」などは、批判ご法度。テレ朝も石原プロとの関係が深く「石原家」には手が出せないらしい。
なので、まともに批判できるのはせいぜい朝日、毎日、共同通信、TBS4社くらい……のようだが、それらも橋下徹前大阪市長の強圧的なメディア攻撃姿勢(会見や街頭演説、ツイッターやネット番組などあらゆる場で、記者の個人名を挙げ、罵詈雑言や嘲笑を浴びせるなど)に屈して以降、記者会見での吊るし上げや取材排除を恐れ、どんどん沈黙するようになっているというのだから、何とも情けない現実というしかない。

こういう「権力と一体のメディア」と「権力に牙を抜かれたメディア」しか持っていない国で、まともな選挙などできるのだろうか……と、参院選・都知事選への興味も投票意欲も落ちる一方。

政治への期待を込めて投票する18歳以上の若者たちには申し訳ないが、今この国で選挙権を得るということは、根付いてもいない「民主主義」の体裁を保つ手助けができる(あるいは「安倍政権のアリバイ作りの手助け」か)、程度の意味しかないのかもしれない。 選挙の結果も見えている。
(著名な外国人投資家が「日本を破綻に追い込んでいる」と警告する「アベノミクス」を、大っぴらに批判するメディアもないし、違憲の「安保法制」も批判ご法度のせいか、なしくずし的に既成事実化され、一向に政権支持率が下がらない)

とはいえ私も、「安倍政権のもとでの憲法改正」は絶対に阻止したいので、その意思表示くらいはするつもり……

その他、政治には何も期待しないが、「批判を異様に恐れ、攻撃に屈する」こんな社会を変える力を一部メディアには求めたいし、自分も蓄えたいと思う。(その前に、職場、地域など、せめて身近な場所からでも「弱い者イジメ」をなくさないと…)

2016/06/19

ちょっとした歓び。



おとといの夜、パソコンに代理店のSさんからメールあり。

少し酒も入っていたので、座り直して二度読み。あなうれし……

先月参加したポスター制作コンペ、「採用決定」の知らせだった。

クライアントは官公庁。デザイン&コピーの出来より、起用したタレントの良し悪し(好き嫌い?)で採否が決まるようなコンペなので、「勝った!」「とった!」と大喜びすることはないが、今年に入って売上げゼロの身としては、有難いことこの上なし。
(きっと、代理店のJINさんも、デザイナーのフェアリーも喜んでいるはず)

「これで明日も、気持ちよくバイトに行ける」

と、昨日、4日ぶりに駐輪場へ行ったら、不正駐輪・迷惑駐輪が多発するブロックの要所要所に、防止対策用の「カラーコーン」が配置されていて、びっくり&にっこり。

暑い季節になると、利用者のイライラが増すせいか、軽く注意しただけでトラブルになることも度々。その事前防止策として「早急に用意してほしい」と会社に強く要求していたのだが、「多少でも金と手間がかかることは、まずやらない(会社)」と仕事仲間に聞かされていたので、まさに嬉しい誤算。これほど迅速に手配してくれるとは思わなかった。

というわけで、「働きやすい職場」に、また一歩前進。この良い流れのまま暑い夏を乗り切れるといいのだが……(もちろん、日焼け・熱中症対策も含め、油断は禁物)

にしても、昨日は暑かった!(清算機の裏側の温度計の針は、なんと39度)

 

2016/06/17

アズナブール(日本公演)!!!


しっかりした足取り、しなやかな身のこなし、そして衰えを知らぬリズム感……これが92歳にもなった老歌手のステージだろうか? これはシャンソンではなく、シャンソンの神様がかけた「アズナブール」という名の魔法ではないのか?

と、我が目を疑いながら鳥肌モノで聴き入った昨夜の「シャルル・アズナブール」(NHKホール)。

19時ピッタリの開演から、休憩なしの1時間40分(MC少々)。曲数にして1516曲だろうか(セットリストが会場になく正確には分からない)……1曲だけ女性コーラスの一人でもある娘さんとのデュエットがあったが、あとはすべて一人。さすがに高音域は厳しそうだが、それを感じさせないほどの声量と表現力で力強く歌い上げるのだから、「すごい!」というほかなし。

「歌う以前に、ちゃんと立っていられるのだろうか?」「途中休憩を入れて、10曲くらい歌ってくれれば、もう御の字」などと、あらぬ心配をしていた自分が気恥しくなるほどの圧倒的なエンタテナーぶりに、思わず「ありえんワ…」と呟きつつ、大満足の一夜となった。(「タラソテラピー」にハマっていて、それが若さの秘訣と何かの記事で読んだが、まさかそれだけじゃないでしょ?!)

で、この夜一番の“鳥肌”は、自分の胸を握りしめた拳で三度(だったと思う)、その魂の場所を確かめるように強く叩きながら歌ってくれた『帰り来ぬ青春(Hier encore)』……




次に、リラの花に見立てた白いハンカチを小道具に、「ある時代のことをあなた方に話そう/二十歳前の人たちには経験しようのない時代のことを/モンマルトルではその頃/僕たちの部屋の窓のすぐ下までリラが枝を伸ばして咲いていた/そして僕たちの愛の巣となった…」(朝倉ノ二―訳)と、貧しくも幸せだった画学生の青春を情感たっぷりに歌い上げた『ラ・ボエーム』。
そして、1999年にエルヴィス・コステロがカバーし、映画『ノッティンガムの恋人』の主題歌として再ヒットしたバラードの名曲『She(忘れじの面影)』、今は亡き友の家でアズナブールを聴きながら過ごした遠い日の記憶が蘇る『哀しみのヴェニス』『ラ・マンマ』などなど、懐かしいヒット曲を今風なアレンジで歌うアズナブールのカッコ良さ。(赤いサスペンダーと赤いソックスも、実によく似合っていた)




……最後の曲が終わるや否や、ホール内に「ブラボー!」の声が鳴り響き、満員の観客は総立ち。
92歳の“シャンソンの王様”は、たくさんの女性ファンから送られた抱えきれないほどの花束と贈り物を手に、拍手の嵐を受けながら、手を振り笑顔で「最後の日本公演(?)」のステージを去って行った。

さて、そんな心震えるライヴに酔わされ、傘も揺れる帰り道……改めて、思ったことはただ一つ。

「人間、年を取るのは同じでも、老いのスピードは違う」(だって、92歳があんなに若い!)


敢えて老いに抗う気はないが、明日からは“もう年だ”なんて、言わないようにしようっと。

2016/06/16

バイト的、近況。



駐輪場で働きだして早1年。

バイトを始めて半年くらいまでは、思った以上に酷い駐輪マナー、一部利用者の侮蔑的な言動・態度など、その不快な職場環境に嫌気がさし、さっさと辞めて別の仕事を探そうか……と考えたことも度々あったが、ここ最近は、特にストレスが溜まる様なこともなく、職場仲間との呑み会(2ヶ月に1回程度)や常連利用者とのささやかな交流も含め、そこそこ気分よく平穏にバイト生活を送ることができている。

というのも、3、4ヶ月ほど前から、「バイトだろうが本業だろうが、納得しがたい現状に甘んじる必要はさらさらない」……と気持ち新たに、“職場環境の改善と利用者間の不平等の是正”を図るため、「見て見ぬ振り」という暗黙のルールにダメ出し。利用者に場内ルールを再認識してもらおうと、端からリスク(逆ギレ、罵詈雑言など)覚悟で、故意に料金をごまかす“せこい”利用者や再三の注意を気にも留めない不正駐輪常習者に「対話と圧力(警告)」の姿勢で積極的に対峙してきたから。
その結果、利用者と整理員の間に適度の緊張関係と普通のコミュニケーションが生まれ、無視され形骸化しかけていたルールも日に日に利用者間に浸透し、目に見えて駐輪マナーが向上。職場仲間のストレスの一因となっていた“最悪のオバサン”の姿も見かけなくなった。
(まあ、そうなるまでにトラブルはつきもの。見知らぬ中年女性に「お前」呼ばわりされ「うるせー」と怒鳴られたり、最悪オバサンに「くそオヤジ」「こんなところで働きやがって」などと声を荒らげて罵られたりもしたが、その都度、若干燃えあがる心を鎮めつつ、言葉を選びながら、態度を崩さず“反撃”してきた……ちなみに“最悪”が私に残した捨て台詞は「こんなに理屈っぽい人、はじめてだわ」。ん?)

お陰で、当初は「ここは変わらない。何を言っても言うだけ損。オレなんかとうに諦めているよ」「(だから)あまり熱心にやらないほうがいいよ。かえって疲れるだけだから」と気遣い、遠回しに暴走気味の私を諌めてくれた仲間のOさんも「ホントびっくりした。こんなに変わるとはね~」「Yさんがいてくれて良かった~」と、喜んでくれるので気分的にも悪くない。(同じく仲間のNさんも「自分の方がずっと長くココにいるけど、これからはYさんに従ってやればいいんだって、そう思う」と、私を持ち上げながら手伝ってくれている)

というわけで、ブログの更新頻度は落ち気味だが、何とか元気に生きているワタクシ。

今日はそろそろ家を出て、渋谷のNHKホールへ……御年92歳のシャルル・アズナブールの声に酔ってきます。

2016/06/08

本田曰く「収穫は、負けたこと」(ボスニア戦)



「(自分の消極性を悔やんで)泣いている場合じゃないぞ、浅野!」と、終了間際にフリーでボールを受けながら、シュートを打たずパスを選択した若き日本代表FWを、テレビの前で叱咤しながら観終えた昨夜のボスニア・ヘルツェゴビナ戦。

FIFAランキング20位の格上で、技術レベルも高かったとはいえ、ボスニアは今夏のEURO出場を逃した国(要するに、ボスニア以上に強い国がヨーロッパには数多くある)。
しかも、エースストライカーのジェコ(ASローマ)やMFピャニッチ(ASローマ)ら主力選手を欠いた、若手中心のチーム。その程度の相手に、ホームゲームでありながら、フィジカルで圧倒され、11でほとんど勝てないようでは、まだまだ世界は遠いということ。

とりわけその距離を感じたのは守備面。2失点に絡んだ吉田麻也は「1失点目も2失点目も点を入れた後と交代選手が入った後と、一瞬の隙を突かれてしまった。絞めるべきところだったと思う。この間(ブルガリア戦)も得点をした後に失点して、その部分は言われていたのに、同じことを繰り返してしまった」「ここから学ばなきゃいけないことがすごくたくさんある。最終予選も始まりますし、これを教訓にしていかないといけない」と悔しさを滲ませながら語ったようだが、正直、もう聞き飽きた。
ここ数年間、何度も同じ反省を繰り返しながら、同じ失敗を重ねるのであれば、それは能力的に伸び代がないということ。特に、ディフェンスリーダーでありながら、あっさりと11でかわされ、危険な位置でファウルを犯した吉田の守備は看過できないものであり、その低調なパフォーマンスは最終予選に向けて大きな不安材料になってしまった。(といって現時点で吉田以上のCBは見当たらない。鹿島所属のU23代表・植田直通など若手の成長に期待したいが……)

ただ、攻撃面に関しては、攻撃の全権を握って躍動した清武、果敢なドリブル突破で強烈なアクセントになった宇佐美、途中出場(しかも代表戦初出場)ながらいきなり遠目からのシュートで積極性(&メンタルの強さ)をアピールした小林祐希など、幾つかポジティブな収穫があったと思う。(浅野の速さも魅力的だが、もっともっと貪欲にならないと)

以上、長友の交際宣言に端を発した「アモーレ祭り」で浮かれた圧勝劇から一転、「(数人の選手は)頭の中がバカンスだった」と監督ハリルホジッチに揶揄&叱咤されたボスニア戦だが、あと3ヶ月で最終予選も始まるし、そうそうネガティブに考えてもいられない。
2試合をベンチで見守った本田圭佑曰く、最大の収穫は「負けたこと」+「若手を何人か試せた」こと。「みんなが自分たちで反省して、次に向かえばいい」というポジティブな姿勢を共有し、新鮮な意欲と意志を携えて最終予選を迎えてほしい。

2016/06/07

台湾青春映画の秀作。



「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい。」

先日(3日)、新宿で映画を観た帰り道、ふと、昔読んだフランスの作家ポール・ニザンのデビュー作『アデン・アラビア』の冒頭の一文を思い出した。

といっても“二十歳”という年齢に引っ掛かったのではなく、私を含め普通の男には無縁と思われる“一生でいちばん美しい年齢”という言葉が、映画の印象に合わせて浮かび上がったからだと思う。
「ぼくは」を「わたし」に、二十歳を17歳に置き換えると、その一文はどう変わるのだろうか。
ちょっとニザンをまねてコピーを書きたくもなった。

映画のタイトルは『若葉のころ』(原題は「五月一號」)。「シネマート新宿」の入口に貼られていたポスターの中で、女子高生が二人、踊るようにはしゃいでいた。そこに付されたキャッチコピーは
17歳、初恋… 記憶の中の君に 僕はもう一度 恋に落ちた。

主人公は離婚した母・祖母と台北の家で暮らす17歳の女子高生バイ(ルゥルゥ・チェン)……ビージーズの名曲「若葉のころ(First of May)」をモチーフに、母と娘、それぞれの初恋を、台湾が戒厳令下にあった1982年と2013年という時間を超えてシンクロさせながら、その痛みと喪失を抒情豊かに描いた青春映画だ。
(今さら青春映画…と言うなかれ。私も普段は青春ラブストーリーというだけで“即スルー”の側だが、4~5年前『台北の朝、僕は恋をする』(2009年製作)を観て以来、台湾青春映画は別モノ。その映像の美しさと色彩の豊かさ、そして甘酸っぱいストーリーに異国情緒が相まった独特の味わいが、とても気に入っている)

で、この作品の一番の魅力は何と言っても、一人二役のヒロイン、ルゥルゥ・チェンの非凡な演技力と個性的な愛らしさ。文字通り「若葉のころ」の瑞々しい輝きを放ちながら、心の脆さと頑なさの狭間で揺れるリアルな17歳を表情豊かに演じていた。
そして心に残る美しい映像の数々……特に、学校の屋上から、盗んだレコードを訳もなく円盤のように飛ばし合う男子高生たちの弾けた姿。そのはしゃぐ声の中、幾枚ものレコードが空に舞うシーンは、二度と戻れぬ17歳という年齢の普遍的なきらめきを活写し、切なく眩しく、脳裏に焼き付くものだった。

というわけで、忘れがたい一本になった秀作『若葉のころ』。
https://www.youtube.com/watch?v=1gewTWM6fH0
映画の中で度々流れるビージーズの曲も久しぶりに聴いてみた。