2012/03/26

久しぶりに、RCサクセション



ボブ・ディランの曲『アイ・シャル・ビー・リリースト』のカバー。

清志郎は、今の日本を予見していたんだなあ……


  

議場に、日の丸?

古い新聞・雑誌を片付けていたら、整理袋の中で地味に拉げているチラシが目に入った。手に取ると、市議会議員(無所属)の「議会報告」……

何気に読んでいたら、昨年末に市議会で「議場に日の丸を掲揚することが強行可決された」という記事にぶつかった。どうやら市民から「議場に国旗を掲揚すべし」という陳情が提出され、それを審議・採択したらしい。「住民福祉の向上」を図るべき議会で、市民の陳情とはいえこんな個人的信条を大げさに取り上げて審議するというのも解せないが、それを強行可決したというのは、もっと唖然。これも大阪維新の会の影響か……と、途端に気分が悪くなった。

一市民の立場で言えば、議場に日の丸が掲揚されようがされまいが、どっちでもいい話だが、なぜ「強行可決」に至るまでの間で「市民の声とは言え、思想的・信条的対立を生むような陳情は却下しよう」とか「反対の人がいるなら、無理に掲揚する必要もないのでは」とか「みんなが賛成できる市の旗でも作りますか?」というような柔軟な意見&発想が出てこないのだろう(別に私は“市旗”など不要ですが)。

大体こういう議題は、歴史認識とイデオロギーの違いを浮き彫りにするだけで、何ら生産的な話し合いにはならず、最後は「個人の意思」の押し付けによって感情的対立に行き着くのは、普通の大人の頭で考えればすぐに分かること。
私は、「日の丸」と「君が代」が、右翼と左翼の思想的対立軸となっていた時代も知っているが、右翼・左翼という区分けすら意味をなくした今、多様な住民の存在に思いを馳せることなく暇で偏狭な市民の陳情に便乗し、わざわざ過去の亡霊を甦らせるような対立軸を設けて、今後の議会運営に禍根を残すだけの審議・採決を行うことにどれほどの意味があるのか、単なる「税金のムダ遣い」ではないか……と、納税者の一人として甚だ不快に思う。

で、賛成票を投じたという女性議員(自民党・東大卒)のブログを読んでみたら……
「今年は絆が求められた1年でした。日の丸を見て、安心感を覚える。素直にそう思っていいのだよ。
日の丸を見て嫌悪感を覚える人がいるのは確かです。ですから、強要はいけないと思います。しかし、嫌悪感の強要もやめてほしいです。」

と書いてあった。オイオイ、子どもかよ!と突っ込みたくなるような支離滅裂な文章だが、どうやらこの人は「絆=日の丸」と思っていて、反対派から「嫌悪感を強要され、それが嫌で自分の素直な気持ちを反対派に強要した」らしいことは分かった……あな恐ろしや、アホらしや(野村監督風に言うと“バッカじゃなかろかルンバ”)。そろそろ「絆」という言葉にも気をつけないといけないなあ。

2012/03/20

「夢見る機械」に注がれた愛と情熱

東北・岩手で暮らしていた子どもの頃、地方巡業で訪れるサーカス団に憧れて、よく小屋へ遊びに行った。親からは「そんなところへ行くと、さらわれるよ」と叱られたが、幼い眼が覗き見たテントの中は夢のような別世界。煌びやかな衣装を纏った団員や珍しい動物、不思議な道具や機材を見ているだけで心が躍り、家が楽しい場所にならないなら「さらわれてもいい」とさえ思ったものだ。

先日、そんな自分を久しぶりに思い出させてくれる映画に出会った。字幕3Dで観た『ヒューゴの不思議な発明』……舞台は1930年代、映画創世期のパリ。駅舎の時計台に隠れ住む孤児の少年ヒューゴが、心を閉ざした老人との出会いを契機に一人の少女と知り合い、父が遺した「機械人形」の秘密を彼女と共に探るという筋立ての、ちょっと切なく優しいファンタジー。初めて3Dでの撮影に挑んだ巨匠マーティン・スコセッシが“少年に自分を託して映画を再発見し、孤高の老人に自分を重ねて、「夢見る機械」としての映画史の原点に立ち返った”と評される作品である。(“孤高の老人”は、特撮映画の父と呼ばれる世界初の職業映画監督ジョルジュ・メリエス。「機械人形」を唯一の友として時計塔の窓から外の世界を見つめる少年ヒューゴは、持病の喘息のため外で遊ぶことができず、映画に親しむことで自分を慰めていた少年時代のスコセッシ自身の投影か)

なぜ舞台がパリの駅舎なのかは、ウィキペディアの「映画史」を読むと容易に理解できる。少し引用すると《リュミエール兄弟らが公開した世界最初の映画群は、駅のプラットフォームに蒸気機関車がやってくる情景をワンショットで撮したものや、自分が経営する工場から仕事を終えた従業員達が出てくる姿を映したものなど、計12作品。いずれも上映時間数分のショートフィルムだった。初めて映画を見る観客は「列車の到着」を見て、画面内で迫ってくる列車を恐れて観客席から飛び退いたという逸話も残っている》……リュミエール兄弟はフランスの映画発明者。『ヒューゴの不思議な発明』の中でも“列車が迫るシーン”が効果的に使われている。

というわけで、この映画は、現在のアメリカ映画界の混迷や自身の創作的閉塞を打破しようとするスコセッシの果敢なチャレンジ精神の所産であると同時に、映画創成期へのオマージュとなるもの。新しいコトやモノを生み出すために、様々な苦難を背負って生きていた人々と、その時代に対する敬意と愛情が詰まった“映画(人)のための映画”と言えそうだ。それゆえに、多少の予備知識を持って観ないと舞台・人物設定が分からず楽しみにくいという難点もあり、謎めいた邦題と妙な宣伝コピーに釣られて、無邪気に「観るものすべてを童心に還らせる」的な王道ファンタジーのつもりで行っては大間違い。「なに、これ?!」とスッキリしない気分のまま劇場を去るハメになるかも。

だが、私のように映画や漫画、小説などの虚構の世界に親しむことで現実に生きるエネルギーを補填し、何とか長い時をやり過ごしてきた人間にとっては、とても心に沁みる映画。改めて、自分の人生が幾多のフィクションによって救われてきたことを思う。

2012/03/17

雨の朝、吉本さんの死を悼んで。

昨日、吉本さんが亡くなった。

とほくまでゆくんだ ぼくらの好きな人々よ
嫉みと嫉みをからみ合はせても
窮迫したぼくらの生活からは 名高い
恋の物語はうまれない
ぼくらはきみによって
きみはぼくらによって ただ
屈辱を組織できるだけだ
それをしなければならぬ     (1954年作『涙が涸れる』より)

まだ、「革命」が空想の物語でなかった時代、「ぼくら」と「ぼくらの好きな人々」との連帯を信じて綴った若き魂の気負いを「定本詩集」の中に残したまま、本当に遠くまで行ってしまった。

享年87歳……お年を考えれば、仕方ないことかもしれない。だが、この世界から吉本隆明がいなくなるなんて思いもしなかった。否、思いたくもなかった。

ここ数年、よく冗談半分に「クリント・イーストウッドと吉本隆明が生きていれば、他の年寄り(友人や市井の人ではなく政治家・知識人の類)は別にどうでもいいよ」と親しい友人に語っていたが、その人が逝ってしまった。悲しいなんてもんじゃない。ショックという言葉で収まりなどつくものか。
吉本さんの言葉に初めて触れた20歳の頃から今日まで、社会で何かことが起きるたびに「吉本さんなら、どう考えるだろう」と、生きる指針にしてきた人だ、急に思考の土台を崩され宙ぶらりんのまま、ただフワフワしている自分がいる。

「戦後思想の巨人」と表され、世間では“難解な思想家”というイメージがあるようだが、私にとっての吉本隆明は「話の分かる厳しくて優しいおじさん」……講演以外でお会いしたことはないが、ずーっとそうだった。市井で生きる人の気持ちが分かる人。それを思想の真ん中に置き何よりも優先し大事にする人。そんな吉本さんを、かつて自ら発刊した同人誌『試行』の創刊メンバーの一人、詩人・谷川雁は「庶民・吉本隆明」と称したが、その通り大衆的で懐の深い思想家だった。だから、「社会や他者との違和」を感じながら生活者として自分の心と向き合う人間に、吉本さんの言葉は胸にストーンと落ちるように強く温かく響いた。「こんな情けない俺でも、情けないままに考えるべきこと、やるべきことがあるじゃないか」と思うことができた。

3.11の後、吉本さんは親鸞の言葉を引いてこう言っていた。
《親鸞は「人間には往きと還りがある」と言っています。「往き」の時には、道ばたに病気や貧乏で困っている人がいても、自分のなすべきことをするために歩みを進めればいい。しかし、それを終えて帰ってくる「還り(カエリ)」には、どんな種類の問題でも、すべてを包括して処理して生きるべきだと。悪でも何でも、全部含めて救済するために頑張るんだと。善も悪も肉親も他人も、すべて関係なく。かわいそうだから助ける、あれは違うから助けない、といったことではなく「還り」は全部、助ける》……近しい誰かが言っていたが、瓦礫の山を一気にさらうブルドーザーのような力強い言葉だった。

総理大臣が「60(歳)になる幹部連中は現地に行って死んだっていいんだ。俺も行く」と戦争にでもいくように息巻き、社会が半ば震えながら「個より公が大事」という風潮に傾きかけている最中、太平洋戦争時の日本の状況と重ね、その後悔の思いを込めて「要するに簡単に言えば、個人個人が自分が当面してる、いちばん大切なことを、いちばん大切として生きなさい、という、それだけのことですよ。公にどんなことがあろうと、なんだろうと、自分にとっていちばん大切だと思えることをやる、それだけです」(ほぼ日刊イトイ新聞より)と語る吉本さんの元気な姿を、どれほど心強く思ったことか。

だから、まだまだ、吉本さんに生きていてほしかった。「原発」や「復興」だけじゃなく、ぼくらには分からないことがたくさんあるのだから、もっともっと話を聞かせてほしかった。でもそれは願っても叶わぬこと。

キヨシロウも、ヨシモトリュウメイもいなくなった日本……残念なだけで、楽しくも面白くもないが、それでもぼくらは、自分の頭で考え、自分の足で歩いて、残りの人生を生きていかなくてはならない。さっさと悲しみを拭って、買い物にも行かなきゃいけない。

外は雨……好きだった吉本さんの詩『佃渡しで』を一人部屋で朗読しながら、また書物の中でお会いするまでの“束の間”、お別れしようと思う。

佃渡しで娘がいつた
〈水がきれいね 夏に行つた海岸のように〉
そんなことはない みてみな
繋がれた河蒸気のとものところに
芥がたまつて揺れてるのがみえるだろう
ずつと昔からそうだつた
〈これからは娘に聴えぬ胸のなかでいう〉
水はくろくてあまり流れない 氷雨の空の下で
おおきな下水道のようにくねつているのは老齢期の河のしるしだ
この河の入りくんだ掘割のあいだに
ひとつの街がありそこで住んでいた
蟹はまだ生きていてそれをとりに行つた
そして沼泥に足をふみこんで泳いだ

佃渡しで娘がいつた
〈あの鳥はなに?〉
〈かもめだよ〉
〈ちがうあの黒い方の鳥よ〉
あれは鳶だろう
むかしもそれはいた
流れてくる鼠の死骸や魚の綿腹(わた)を
ついばむためにかもめの仲間で舞つていた
〈これからさきは娘にきこえぬ胸のなかでいう〉
水に囲まれた生活というのは
いつでもちよつとした砦のような感じで
夢のなかで掘割はいつもあらわれる
橋という橋は何のためにあつたか?
少年が欄干に手をかけ身をのりだして
悲しみがあれば流すためにあつた

〈あれが住吉神社だ
佃祭りをやるところだ
あれが小学校 ちいさいだろう〉
これからさきは娘に云えぬ
昔の街はちいさくみえる
掌のひらの感情と頭脳と生命の線のあいだの
窪みにはいつてしまうように
すべての距離がちいさくみえる
すべての思想とおなじように
あの昔遠かつた距離がちぢまつてみえる
わたしが生きてきた道を
娘の手をとり いま氷雨にぬれながら
いつさんに通りすぎる

2012/03/10

マイトガイのつぶやき

昔よく観た日活アクション映画、中でも好きだったのは小林旭の『渡り鳥シリーズ』。いわゆる股旅物で、ギターを背負った主人公が全国を放浪しながら、辿り着いた場所のワルを懲らしめるという「男はつらいよ」と「水戸黄門」を7:3で合わせたような筋立てだが、そのシチュエーションの不可思議さが際立っていて特に印象に残っている。

例えば、何故か主人公はいつも馬に乗って現れる(馬で海を渡れないし、どこで乗り継ぐのか?)。寅さんのような香具師でもなく、どうやって金を工面しているのかも不明だ(しかも拳銃まで所持している)。で、酒場で暴れ過ぎじゃないかと思うし、そんな荒くれの風来坊が女にもてるのも腑に落ちない。そもそも何故ギターを持っているのか、なぜ敵役はアキラが歌い終わるまで攻撃しないのか……と次々に疑問が湧いてくるのだが、「そんな小さなことは気にするなよ」とでも言うように明るく歌い颯爽と振舞うアキラの存在感は圧倒的で、その無頼な佇まいとカッコいいアクションに時も疑念も忘れて見入ったものだ。

本当の銀幕スターだけが持つ説得力とでも言うのだろうか。自らが放つ眩い光にさえ無頓着で、周囲の目など気に留めず感じたままを口にし、思いのままに振舞い、抜きん出た存在感で人を魅了していく……そんな「小林旭」を、作家・小林信彦は「無意識過剰」と表したが(今風に言うと“不思議ちゃん”)、なかなか上手いことを言うものだと思う。“代々木泣くのはおよしなさい♪(恋の山手線)”と、空に抜けるような甲高い声で能天気に歌っている姿などは、その典型かもしれない。

で、その昭和の大スター「小林旭」の半生を振り返ったインタビュー本が出ていることをつい最近知った。著者はサッカー通なら誰もが知っているスポーツライター・金子達仁……きっと、渡り鳥シリーズの裏話や痛快でスケールのでかい話がてんこ盛りなのだろうと無性に読みたくなり、先日(13日)仕事で恵比寿に出た際、アトレの本屋で手に入れた。

タイトルは『不器用なもんで。』……う~ん、イケてない。不器用=健さん、ではないのか。でも、きっと中身は面白いはず。と信じ込んで読み始めたのだが、これがまた思いのほかイケてない。期待した“スケールのでかい話”は、14億もの借金を僅か数年で返したことと、コンサートのギャラ750万円+所持金200万円を入れたポシェットを新幹線の中で寝ている隙に取られたという、少しマヌケなネタだけ。“渡り鳥”に関しては、ロケ先で暴徒化したファンから必死で逃げたとか、暮れの忘年会では「石原一家(裕次郎組)」と「渡り鳥一家」が熱海の海側・山側に分かれて芸者を取りっこしたとか、その程度のこと。特に後半は“痛快な話”どころか、芸能界と平成の時代に対する愚痴&説教のオンパレード……ひょっとしてコレは73歳のアキラ流《好々爺・拒否宣言》なのか?とでも思わなければ、「マイトガイ」の名が泣くようなインタビュー本だが(一体、金子達仁はアキラの何を書きたかったのだろう)、やはり映画を語らせたら一級品の味わい。名匠・黒澤明と三船敏郎について語った箇所だけはトップスターらしい視線と経験、そして映画への愛着が感じられて面白かった。

ということで、かなり長くなるがその部分をご紹介。

「黒澤さんみたいに画面の被写体を生かしていく撮り方のできる人はそうそういないよ。なにより構図が素晴らしい……スケールを出す技術はアメリカにあっても、その中で動く被写体の色を芸術的に出したり、魅力を引っ張り出すいう撮り方ができるのは、日本という狭いエリアで家内工業をコツコツやってきた黒澤さんならではだと思う。日本の深さや広さというのは、すでにあの人が目一杯出し切っちゃったね」

「壮大な絵を撮るという点では、ジョン・フォードに軍配があがる。“荒野ってすげえな”っていう、あの乾きや埃は日本人には撮れないね。粘りきってすごさが出るのが黒澤明の世界だから、やっぱり砂漠を開拓した人間と、田畑を耕してビショビショの足元を這いつくばって生きてきた東洋人とは違うってことだな」

「映画という特別な世界に入ったときだけ異色な感覚を発揮する才能があったんだろうね。だって、普段喋ってるときは何もない人だったから。会ったら『こんにちは。元気でやってる?』なんつって話はしたけど、鬼の黒澤の面影なんて少しもない。ハハンって笑ってるだけ。それでも、あの目は特別だったな。ああいう人は個人的な感情を達観しているような目をしてるんだよね。なんというか、自分から見える場所だけじゃなくて全体を見ながらすでにデッサンが終わってる感じ。黒澤さんは常に風景画の中に入っていて、瞬間的に『後は色刷りだけ』っていう状態に仕上げちゃうんだと思う」

「黒澤さんは、一辺倒の芝居しかできなかった三船さんの迫力を買った。誤解されるのを覚悟で言わせてもらうと、大根ということを見越した上で、三船さんを黒澤明流に作り上げたんだな。三船さんは黒澤さんの汁の色が出てくるようないい大根だったんだよ。俺らみたいな灰汁の強い役者は初めっからお呼びじゃない」

※小林旭の代名詞「マイトガイ」は、「ダイナマイトのような男」という意味。なぜか漢字で書くと「旋風児」。

2012/03/06

シンボルスカの詩に想う春

今年2月1日、肺がんのため88歳でこの世を去ったポーランドの女性詩人・ヴィスワヴァ・シンボルスカ……1996年にノーベル文学賞を受賞した世界的に有名な詩人だが、私がその人の名を知ったのは去年の暮れ。池澤夏樹のエッセイの中で紹介されていた一編の詩に惹かれてのこと。

その詩は、愛する人の死後の春を迎えた詩人の心境を綴ったものだが、池澤氏のエッセイによって広く知られ、震災後の日本人の心にも強く訴えかけるものになった。

またやってきたからといって

春を恨んだりはしない

例年のように自分の義務を

果たしているからといって

春を責めたりはしない


わかっている

わたしがいくら悲しくても

そのせいで緑の萌えるのが止まったりはしないと  

(詩集『終わりと始まり』より。訳・沼野充義)

町を破壊しようが、家屋を押し流そうが、人を海に攫っていこうが、
自然に悪意などない。ただ人間の営為に無関心なだけだ。

もうすぐ、3.11……

また、私たちの存在の小ささと虚しさと愛しさを思い知る春が来る。