2011/08/25

「L’amour(愛)」という名の音楽会


別にファンというわけではないのだが、身内から只券を貰ったので『美輪明宏』の音楽会に出かけた。会場は西武新宿線小平駅近くの“ルネ・こだいら”。着いたのは開演30分前、でも既にホールは老若女女の圧倒的な熱気で飽和状態……入り混じるシャネルやら何やらの匂いに若干クラクラ感を覚え、アラカンの男一人“やはり場違いであったか”とごちていたが、席はかなり前の方で視聴意欲↑。
定刻15分過ぎ、いよいよ絢爛豪華な美輪ワールドの開幕……と思いきや、眼前には昭和30年代の東京・銀座とおぼしき、パステル調の装飾に彩られたノスタルジックな街並みが広がっておりました。

で、1曲目は60年安保を象徴する珠玉の歌謡曲『アカシアの雨がやむとき』。少年期に心震わせた歌の予期せぬセレクトに、思わずオォーッと小さく叫んでしまったが、やはりこの曲は“サッチン”こと西田佐知子様に歌われてこそのもの。虚しく広い空に散った夢も涙も救い上げ、そっと孤独な心に帰すような声の切なさ・優しさ、その姿の美しさ・儚さが時代の風景と重なり、遠い日の淡い憧れの記憶として残っている私には、失礼ながら美輪さんの“アカシアの雨”は、花が土に倒れ伏す嵐のようで、まったく心を打たない……だが、2曲目は違った。こんなに決然とした『今日でお別れ』は初めて聴いた気がする。さすが美輪明宏、別れの曲さえポジティブな方向に持っていくのだなあと妙に感心してしまった。

その後も、歌→昭和の話&毒舌→歌→銀巴里の話&毒舌→歌→愛の説諭……と、傲慢不遜・石原慎太郎と原爆投下国アメリカを嫌悪する“無償の愛の伝道者”による二部構成(昭和歌謡&シャンソン)の音楽会は大した驚きも感動もなく続き、エンディングは英語と仏語による『愛の讃歌』。
スピリチュアリスト・江原啓之曰く、この歌の時は“エディット・ピアフが降りてくるのが見える”そうで……はあ~?と半ば嘲笑しつつ拝聴したのだが、何かに憑かれたかのようにこれまでの歌とは、声のハリ・伸び、そして気迫が明らかに違った。これは、本当に降りてきたのかも!?と思わず息を呑む今日一番のステージでした。(まあ、ラストくらいバシッと〆てくれないとね~)

で、閉演後の感想ですが……エディット・ピアフは少し居たけど、『ヨイトマケの唄』で鮮烈にデビューした《丸山明宏》は居なかった!かな。
音楽会の微かな余韻も、帰りがけに立ち寄った地元の“王将”で飲んだビールの泡と一緒に消えちゃったし……。恐らく、再びステージを観に行くような縁はないだろうなあ。

2011/08/17

『ツリー・オブ・ライフ』を観た。


今年のカンヌ映画祭パルムドール受賞&ブラッド・ピットとショーン・ペンのW主演。そして生命の連鎖をイメージさせる美しい語感のタイトル……そんな魅力的なプロフィールをもつ作品にも拘らず、レビュー評価があまりに低い(でも、新聞広告のコピーは“絶賛の嵐”)。なんで?と気になっておりましたが……。

なるほど、多くの観客が納得するような分かりやすい“愛と感動のドラマ”はない。「存在」の不可思議さを生命と宇宙の相関に探る果てしない意識の旅と、神を心に抱き“どのように生きるべきか”を問いかける叙情的な映像があるだけだ。だからストーリーラインがはっきりしない。断片的に家族の生活が描かれていくので観る側の視座が定まらず、登場人物の心の内が語られても感情移入が容易にできない。さらに、冒頭のナレーションから一気に数十億年の時間を飛び越えて、生命の起源・宇宙の根源に迫ろうかというイメージ映像の連続的長さは、いきなり宗教的観念の世界へ導かれたような不可解さと居心地の悪さを伴う。
これでは2大スターによる“父と子のヒューマンストーリー”の速やかな展開&感動的結末を期待した人たちが「観る映画を間違えた!」と後悔の念を抱くのも“ごもっともな話”と理解できなくもない……が、その不満と憤りは、この難解な作品に対してではなく、配役の魅力を最大のウリに、家族の確執と和解のドラマを思わせるキャッチコピーを大量に露出させ、“誰もが笑って泣ける映画”のように、シネコン主体の大集客を目論んだ配給会社に向けられるべきものではないだろうか。(もちろん、観る側にも不実なプロパガンダに乗らない心の準備と、「騙されてもいいじゃん!」くらいの大らかさがあっていいとは思うけど)

私自身は、心惹かれる美しいシーンも多々あり、イメージ映像の連射で朦朧となった意識を何とか律しながら、監督テレンス・マリックの自伝的叙事詩、その哀感を帯びた映像が醸し出す不思議なリアリズムの世界、そして何よりもブラッド・ピットの素晴らしい演技を楽しむことができたので良し(映画を見る前は父と子の役は逆じゃない?と思ったけど、父ブラピはイヤになるほど当り!)
ただ、この映画が意図したであろう“個人の物語と宇宙の営みの間に、どんな関係があるのか”という神秘的・哲学的な問いかけは、旧約聖書から引用される数々の言葉とともに、漠としてスクリーン上を漂うのみ。常に神(=創造的意志)の存在を思考・行動の規範に据える一神教の風土への違和感も手伝い、信ずる神を持たず世俗に生きる私の胸に迫ることはなかった。