2017/10/15

大群衆の中で。(「東京大作戦」!)




ここ1週間、頭の中は衆院選70%、その他30%(家事・仕事・映画・猫など)……といった感じ。

8日の日曜、MIYUKIさん、UEちゃん、長野から遊びに?来たMOTOMI嬢たちと呑んで、騒いで、楽しく歌ったが、その際の話題も衆院選が中心だった)


昨日は、立憲民主党が実施した街頭演説会「東京大作戦」(新宿駅東南口)の大群衆の中に支持者の一人として加わった。(私的には、政治家の演説を間近で聴きたいと思ったのも、金1万円の寄付までして一つの政党を応援するのも初めてのこと)

演説会のスタートは1425分。(その前に景気づけとして、東南口徒歩1分の「シネマカリテ」で、パンクロックのゴッドファーザーと呼ばれるイギー・ポップが率いた伝説的バンド「ザ・ストゥージズ」の軌跡を追ったドキュメンタリー『ギミー・デンジャー』を鑑賞。映画終了後、意気揚々と東南口広場へ)

会場に着いたのは1435分。演説会は既に始まっていて、もの凄い、人、人、人。歩道橋の上にも人が連なり、駅に続く階段もビッシリ人で埋まっていた……政党の街宣で多く見られる「のぼり旗」がひとつも見られなかったことに(後で写真を見たら「まっとうな政治。」と書かれた旗が何本か立っていた)、今までにない新鮮な息吹と勢いを感じつつ、ボランティアの方の誘導で人波の中へ。演壇から少し離れた場所で「小林よしのり」の強烈なアジテーションに耳を傾けた。
(小林よしのり氏に関しては、90年代に歴史修正主義としか思えない主張を堂々と展開する漫画「ゴーマニズム宣言」でナショナリズムを煽り続けた極右・漫画家というイメージが強く、私的には「現在の排外的・差別的な風潮を作りだした張本人はあなたでしょ」と文句を言いたいぐらいだが、彼自身の今のスタンスはその頃とは大分違うようで、“まっとうな保守”の立場から安倍&小池・前原を痛烈に批判していた。但し、その事で過去がチャラになるわけではないと思うが……それにしても、小林よしのり氏に加え、「一水会」の最高顧問・鈴木邦男氏も立憲民主党の応援に来ているという、ある意味歴史的な演説会であり衆院選になった気がする)

で、「小林よしのり」の後は、お待ちかねの真打ち、立憲民主党代表・枝野幸男登場……

「受け止めきれていない国民の声がある。それを受け止める旗をしっかりと掲げなければならない。そんな思いで、改めて、これまで民主党、民進党の中で積み重ねてきた政策、理念、それを更に一歩大きく踏み出して、新しい旗を掲げさせていただきました。
右とか左とかではない。今、政策も、民主主義も、上からのものになってしまっていないか。草の根の、暮らしの声に支えられた下からの民主主義を、下からの経済再生をしていかなければならない。右でも左でもなく、下から前へ。新しい旗を掲げさせていただきました」

「一緒に、日本の本当の意味での、支え合い、そして困ったときに寄り添う、互いの違いを、多様性を認め合う。そんな社会を作っていくために、一緒に歩きませんか。一緒に前に進みませんか」

「厳しい道だと思っています。しかし。これだけの人が、こんなに短期間で、私たちに期待をしていただき、注目をしていただいています。私たちも、全力で戦います。でも、一緒に、皆さん戦いましょうよ。日本の民主主義を、次のステージへと踏み出させましょうよ。日本の社会を、もう一度、求心力を持った、みんなが支え合う社会へ、取り戻していく一歩を踏み出しましょうよ。私には、あなたの力が必要です。どうぞ一緒に戦っていきましょう。どうぞ一緒に前に進みましょう。一緒に頑張りましょう」

その力強い演説を聴きながら、この5年間で奪われたものを改めて思い知った。それは「言葉」ではないかと。「美しい(日本)」とか「(日本の)こころ」とか「希望(の党)」とか、本来は素直に心地よく胸に響くはずの言葉が、どこかイヤな言葉として、気持ちの悪い言葉として、胸の中に居座り続けた5年間……その「言葉」を彼は全力で取り戻そうとしている。一言一句、誠意と熱意を込めてキチンと生活者の胸に、日本人の心に響く飾り気のない“まっとうな言葉”として取り戻そうとしている。そのことに多くの人たちが共感・共鳴している。そう私には思えた。

2017/10/07

「上からか、下(草の根)からか」




徐々に秋の気配が色濃くなり、吹く風もだいぶ冷たくなってきた今日この頃。

その風の変化につられたかのように、2週間の間で、世間は色々様変わり。あれだけ「北朝鮮」「ミサイル」と騒いでいたメディアが、今や衆院選一色……小池人気から生まれた「希望の党」が「民進党」と組んで旋風を巻き起こすか?と思いきや、その小池氏の「さらさらない」「排除します」といった冷徹な言葉が不信を招き内部ゴタゴタ人気ガタ落ち。
たった数日で「希望」が失望に変わり、その党首は「緑のタヌキ」という有難くないあだ名までつけられてしまった。おまけに、前原氏の地元・京都ではこんな歌も歌われ出したとか……小池にはまって、さあ大変♪(前原ころころ うらぎって)

とまあ、一寸先の闇の中で、視聴率&購読者数ファーストのメディアが盛り上げる「安倍自民 VS 半自民・小池」の政変劇が展開されているが、その隙間に少し明るい光もさしてきた。
“えだのん”こと枝野幸男氏が「枝野立て!」の声に押されて立ち上げた「立憲民主党」。その公式ツイッターアカウントが、開設5日目にしてフォロワー数が15万を超え、11万の自民党をあっという間に引き離し国内最大の政党アカウントになったようだ。
(私も毎日見ているが、市民の声に答える管理者の声がウィットに富んで中々面白い。また党首が「立憲主義、民主主義、自由な世界を守っていく」と語っているように、市民同士の議論の場にもなっていて、政党のツイッターなのに自由で何だか楽しい空間)

自分ファーストの権謀術数や作り笑顔ではなく、政治家は言葉の力で人の心をつかむもの。周囲の声に押されて立った枝野氏の演説は分かりやすく力強く集まった多くの市民の胸を打つ。
例えば「右か左かなんていう、イデオロギーの時代ではない。上からか草の根からか、それが21世紀の本当の対立軸」「保守とリベラルは対立概念ではありません。私はリベラルであり、保守であります」などという言葉を誰が今まで有権者に向けて発したことがあっただろうか。
それは、どんな意見にも分け隔てなく耳を傾けるという党首としての明確な意思表示であり、多様性を認め合い“草の根からの民主主義”を作り上げて行こうとする、まっとうな政治家の姿。
「寛容」という言葉は、彼のようなリーダーにこそふさわしいのであって、権力欲だけが透けて見える「緑のタヌキ」が使っていい言葉ではない。
(「憲法改正」に関しても、彼のようなスタンスの政治家が中心になって丁寧に与野党で論議されるべきもの。立憲主義の理念も分からず自分勝手に否定するような政権のもとで論議されるものではないと思う)

というわけで、今回の衆院選。ギスギスした社会の澱んだ空気が多少でも変わるように、当ブログは「立憲民主党」の躍進に期待します。


 

2017/09/27

そんな社会の片隅で。




2週間ほど前の「朝日川柳」にこんな一句が載っていた。

不正より不倫を叩くそんな国

つい最近も「声」の欄に、各テレビ局が足並み揃えての不倫バッシングに疑問を抱く声が寄せられていた。私もその声に概ね同意。

決して不倫がいいとは思わないが、不倫も恋愛の一つ。誰が誰を好きになろうと(例え、その事で誰かが傷つくことがあっても)個人の自由、誰しも恋する心を止めることはできない。太宰の言葉を借りれば「惚れたが悪いか」だ。自分(たち)の倫理観・価値観と異なるからといって、当事者でも家族でもない人たちがとやかく口を出すことではない。
それなのにどうしてそこまで他人の恋愛が気になるのか、許せないのか。何ら利害関係もないのに謝罪を要求したり、謝り方が悪いとケチをつけたり……日頃のストレスのはけ口のように追い込んで、政治生命やタレント生命を奪わなければ気が収まらないというのでは、メディアも社会も病んでいるとしか思いようがない。

かと思えば、私も少し気に入っている女優・水原希子を、その出自においてバッシングしているケースもある。いわゆる「レイシャル・ハラスメント」だが、根にあるのは“嫌韓”。母親が在日韓国人(父親はアメリカ人)の彼女が日本名で活躍しているのが気に入らないらしい。
ネット上のナショナリストらしき人たちは、一体、どこまで狭量なのだろう。

こういう不寛容で排他的な風潮を憂えているのは、何も「リベラル」な側の人たちばかりではない。“戦後日本の欺瞞を撃つ”という副題の付いた対談本『憂国論』の中で、保守派の政治活動家・鈴木邦男氏(元・一水会代表)がこんな話をしていた。

《(イスラム国による邦人人質事件に関連して)ひどいなあと思ったのは、国民の間でも「人質になって殺されたのは自己責任だ」「安倍首相よくやった」と絶賛する人がいたことです。そういう冷淡な人たちを生んで来た日本、アメリカナイズされた日本に対しては疑問を持たざるをえない。
保守派の人たちは口を開けば「日本を守る」というけれども、いったい日本の何を守ろうというのか、日本は数多くの外国からいろいろな文化を取り入れてきたわけですが、それにもかかわらず、「外国人は出ていけ」と言っている。そういう排外主義は、ちっとも日本らしさじゃないですよ。
排外主義的な集会やデモでは日の丸の旗が立てられていますが、日の丸というのは大和(やまと)、つまりみんなが仲良くするという意味じゃないですか。それなのに、外国人を排除しようとしていることにものすごく違和感を持ちますね》

けだし同感。ホント、色々考えるのもヤになるくらい、変な社会になっちゃったなあ……

と、一人、愚痴やため息が出ることも度々だが、世の中にはその不寛容で多様性が失われている社会の中で息づく様々な声を聞きとり、それを分析することで(あるいは分析も解釈もできないことを集めて)、高橋源一郎曰く《社会全体の未来を見据えた「ことば」》として私たちに提示してくれる人もいる。
先日読み終えた『断片的なものの社会学』の著者で“数多くの人々と出会い、その語りを記録”してきた社会学者・岸政彦氏だ。

「人の語りを聞くということは、ある人生のなかに入っていくということ」と表紙に小さく記された本の中で出会ったのは、心を鎮め、前を向かせるこんな言葉たち……

《なにかに傷ついたとき、なにかに傷つけられたとき、人はまず、黙り込む。ぐっと我慢をして、耐える。あるいは、反射的に怒る。怒鳴ったり、言い返したり、睨んだりする。時には手が出てしまうこともある。
しかし、笑うこともできる。
辛いときの反射的な笑いも、当事者によってネタにされた自虐的な笑いも、どちらも私は、人間の自由というもの、そのものだと思う。人間の自由は、無限の可能性や、かけがえのない自己実現などといったお題目とは関係がない。それは、そういう大きな、勇ましい物語のなかにはない。
少なくとも私たちには、もっとも辛いそのときに、笑う自由がある。もっとも辛い状況のまっただ中でさえ、そこに縛られない自由がある。人が自由である、ということは、選択肢がたくさんあるとか、可能性がたくさんあるとか、そういうことではない。ギリギリまで切り詰められた現実の果てで、もうひとつだけ何かが残されて、そこにある。それが自由というものだ》

《私たちは孤独である。脳の中では、私たちは特に孤独だ。どんなに愛し合っている恋人でも、どんなに仲の良い友人でも、脳の中まで遊びにきてくれない》

《エミール・デュルケムは、私たちが「神」だと思っているものは、実は「社会」であると言った。
祈りが届くかどうかは、「社会」が決める。
災厄をもたらす悪しき神もいる。それと同じように、社会自体が、自分自身の破滅にむかって突き進むこともある。神も社会も、間違いを犯すことがある。
私たちは、私たちの言葉や、私たちが思っている正しさや良いもの、美しいものが、どうか誰かに届きますようにと祈る。社会がそれを聞き届けてくれるかどうかはわからない。しかし、私たちは、社会にむけて言葉を発し続けるしかない。それしかできることがない。
あるいは、少なくともそれだけはできる》

学者らしからぬ自由で素直な感性の基に積み上げられた、その「仕事」の深さと面白さ、言葉の豊かさが一体となって胸に迫ってくるような……あるいは、敬愛すべき友人を得たような、腹を割って語り合える同志に出会えたような思いにさせてくれる一冊。折に触れては読み返す、そんな本になりそうだ。

 

2017/09/22

「私たちは、新しい地図」




いつものように、テレビをかけながら、新聞を開いて、紅茶を飲みつつサラダとバナナとヨーグルト&パンを食べる朝……

狂犬トランプの付き人のような“忠犬・晋三”の顔を見ていてもメシがまずくなるので、「あさチャン」は耳で聴きつつ、新聞をめくっていたら、空をバックに手描きの方位記号と「新しい地図」という文字だけが載っている、えらくシンプルな見開き全面広告が目に飛び込んできた。

ん?とよく見ると、下段にGORO INAGAKI  TSUYOSHI KUSANAGI  SHINGO KATORI、左下にはATARASHIICHIZU.COMと記されている。

どうやら元SMAP3人が開設した公式ファンサイトの告知広告のようだ。

特にSMAPのファンではないが、その「新しい地図」というサイトの名前が気になり、朝食を終え「ひよっこ」と「あさいち」(ゲストは俳優・菅田将暉。いいね、彼は)を観た後、早速アクセス。新聞広告と同じデザインのトップページのナビゲーションボタン、PLAY MOVIEをクリックした。


短い映像だが、実にイイ感じ。コピーも刺激的で、とても力強い。お陰で「さあ、頑張るか!」と、疲れた体に鍼を打たれたような(う~ん、ジジ臭い)、ちょっと気分の良い朝になった。

 逃げよう。
自分をしばりつけるものから。

ボーダーを超えよう。
塗り替えていこう。

自由と平和を愛し、
器はアイデアと愛嬌。

バカにされたっていい。
心を込めて、心を打つ。

さあ、風通しよくいこう。

私たちは、

新しい地図。

吾郎、剛、慎吾。みんな楽しく生きちゃって!

2017/09/20

「ポレポレ」で、久しぶりの“映画酔い”


ジム・ジャームッシュ監督のドキュメンタリー『ギミー・デンジャー』、湊かなえ原作の『望郷』、名作「ヨコハマメリー」の中村高寛監督が8年の歳月をかけた長編ドキュメンタリー『禅と骨』。
そして、多分、私たちが過ごしたあの頃を振り返らずにはいられない『三里塚のイカロス』、クジラ漁で有名な和歌山県太地町を取材したドキュメンタリー『おクジラさま ふたつの正義』、心臓移植をテーマにしたフランス&ベルギー映画『あさがくるまえに』、新鋭・澤田サンダー監督の商業デビュー作『ひかりのたび』などなど。(さらに今週末からは注目の『ユリゴコロ』も始まる)

子どもと親たちの夏休みが終わり、9月も半ばを過ぎて、時間に融通の利くコアな映画ファン(つまり、私を含むシニア世代?)を狙っていたかのように、そそられる作品が目白押し。

さて、どれから観に行こうか……と、昨日は珍しく迷ってしまったが、まずは『ヨコハマメリー』に敬意を表して『禅と骨』を観に行くことに。ミニ・シアター「ポレポレ東中野」も久しぶりだ。

『禅と骨』は、2012年に映画の完成を待たずに93歳で亡くなった京都嵐山・天竜寺の“碧い眼の禅僧”ヘンリ・ミトワさん(1918年、横浜でアメリカ人の父と新橋の芸者だった母の間に生まれた日系アメリカ人)とその家族の人生を追ったドキュメンタリー。

上映開始は13時。早目に家を出てチケットを購入した後、1階のカフェ「ポレポレ坐」で軽くランチをとりながら1時間。残り20頁ほどだった『自由を盗んだ少年 北朝鮮悪童日記』(著者:金革キムヒョク)を読み終え、心置きなくビル地下のシアターへ。上映前のフロアは中高年男女を中心にかなりの混雑だった。

上映15分前に入場。館内には「骨まで愛して」の渋い歌声が流れていた。歌はその後、童謡「赤い靴」から「京都慕情」(苦しめないで ああ責めないで~♪)へと移り、妙な懐かしさに包まれる中、予告編に続いて本編がスタート。冒頭、横浜・山下公園に立つ「赤い靴はいてた女の子」の銅像が映し出された。

そして2時間超……「禅」よりも、とことん「骨」を感じさせられる最終章《虹立つところ》を経て、横山剣が歌う「骨まで愛して」がゾクッと胸に染み渡るエンドロールまで。ドラマとアニメを交えて描かれる“愛×情”物語にどっぷり浸って気分はハイ↑。
(ナレーションは仲村トオル。音楽は元ゴールデン・カップスのエディ藩、クレイジーケンバンド・横山剣をはじめ、大西順子、岸野雄一、野宮真貴、コモエスタ八重樫らが担当し、随所に醸し出されるハマっぽさ。ヘンリの青年時代を再現するドラマパートはウエンツ瑛士、余貴美子、永瀬正敏、利重剛、緒川たまき、佐野史郎など、なかなかのキャスティングで見応えあり)

その“映画酔い”のような興奮は帰り際まで冷めやらず、次回の上映を待つ人たちに「いや~、すごく面白かったよ~!ゆっくり楽しんでね~!」と片っ端から声をかけたくなったほど。(もちろん、口には出さないが)

純粋でありながらどこか胡散臭く、少し哀れに思うくらい滑稽かつ奔放で、「悟り」の世界とは生涯無縁だったように思える“禅僧ヘンリ・ミトワ”。その強烈な個性とカオスな人生にすっかり魅せられてしまった。(次女の静さんも、父に負けず劣らずの強烈キャラ)

以上。今年観たドキュメンタリー映画の中では断トツの面白さ。超おすすめの一本!

※待ち時間に読了した『自由を盗んだ少年』は、食糧危機により餓死者が100万人を超えたと言われる1990年代の北朝鮮で、幾度となく生死の境をさまよいながら「コッチェビ(放浪者、路上生活者)」として生きぬき、18歳の時に決死の覚悟で脱北。韓国に渡り大学院で北朝鮮学を研究するまでに至った青年の半生を綴った手記。
社会主義を標榜していても、北朝鮮はキューバなどとは全く違って「出身成分」(嫌な言葉だ)による徹底的な身分差別が行われている階級社会。あの国で生きることの難しさと、下層の人たちの貧困の凄まじさを改めて思い知らされた。(ミサイルなんか飛ばしている場合じゃない!)

2017/09/17

本物中の本物(セルゲイ・ポルーニン)




ちょっと間が空いてしまったが…先々週の木曜(7日)、新宿「シネマカリテ」でドキュメンタリー映画『ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣』を観てきた。(11回限りの上映ということもあり、館内はかなりの混雑。早目にチケットを買っておいて正解)

セルゲイ・ポルーニンは2009年、史上最年少の19歳で世界の最高峰、英ロイヤル・バレエ団のトップ(プリンシパル)に上り詰めた天才だが、その早熟さが災いしたのか、次第にレッスンをさぼり夜遊びに明け暮れるようになり、ドラッグ使用を赤裸々に話すなど壊れはじめ、ついには全身をタトゥーで覆い2012年に電撃退団。以来「反逆者」「空を舞う堕天使」などと呼ばれ、映画の撮影当初はスキャンダルの渦中に置かれていたようだ。

で、その“世界一優雅な野獣”の半生を辿った本作だが……

正直、セルゲイ・ポルーニンが踊る場面を除けば特に胸に迫る言葉も劇的なドラマもなく、彼の葛藤や反逆の理由も意味もよく分からない(伝わらない)至って凡庸なドキュメンタリー映画と言った感じ。(途中、あまりに流れが緩慢で眠気に襲われてしまったほど)

対象の内面の変化にじっくり寄り添うべきはずのカメラが映し出すのは、抜きん出たダンスの才能はあっても、方向性の定まらない飽きっぽい少しやんちゃな性格の若者と、それに戸惑う家族&彼の才能の凄さを語る仲間や恩師の姿だけ。“優雅な野獣”の心に秘められているはずのドラマには中々近づけない(どこが野獣?どこが反逆者?)。
そして、探そうとしても求めるドラマを見つけ出せない焦り・苛立ち?からだろうか、自分からは動かないセルゲイ・ポルーニンを動かす(踊らせる)ために、製作側は『Take me to Church』という音楽と有名なカメラマン(デビッド・ラシャペル)をセットで用意(いわゆる“仕掛け”だが、ドキュメンタリー映画では禁じ手のはず)。そのダンスを編集しYou Tubeで世界中に向けて配信、爆発的な反響を呼び映画も大ヒットとなったわけで……ずっるーい!!の一言。

なので、ドキュメンタリー映画としては★一つの評価もできないが、『Take me to Church』で見せてくれたセルゲイ・ポルーニンのダンスは、バレエにさほど興味のない私のような人間をも唸らせる素晴らしさ。


まさに本物中の本物。「ヌレエフの再来」と言われるのも納得だ。(といっても『愛と哀しみのボレロ』でヌレエフをモデルに踊ったジョルジュ・ドンを知っているだけで、ヌレエフのダンスを観たことはないが)


11日~12日は7度目の明石(「営業案内パンフ」制作の打合せのため、“たたき台”となるデザイン&コピー案を持ってクライアントの本社へ)。ホームページ制作、リクルート用映像制作(現在1回目の試写を好評の内に終え、スタジオでの最終音入れは926日)に続いて3件目の仕事だが、その会社の経営コンサルタントで親しい友人のY君や制作スタッフとの“飲み会”も含め、最早“第二の故郷”と呼んでもいいほど楽しく密度の濃い時間を過ごす町になってしまった。

で、8度目は今月の25日(前泊)~26日、再び「営業案内」の詰めの打合せ。当然、その後は取材・撮影も控えているし、嬉しいことに今しばらく明石から離れられそうもない。